気合が入り過ぎると、よくない。
お引越しして一発目の記事だからとか、なんかね、いろいろカッコつけたり、考えすぎて、気づけば10日過ぎていた(笑)
読んだよ!とか、あの記事に書いてあったね、とか、言葉にして伝えてくれると感動でうるうるする。
やっぱり言葉の力はすごい。
救われているのは、いつも私のほうです。
伝えてみないと始まらない。
たった1行だけど、人生で初めて父にメールを送った。
☞父への1行ラブレター【note】
「誕生日おめでとう」
父からの返事もまた、「彩ちゃんありがとう」の1行だったけれど、その1行にどれだけの時間がかかっていて、どれだけ考えて、母に報告している嬉しそうな顔とか、次々と浮かんできて、ニンマリした。
相手を思って投げかけた言葉なのに、自分がいちばん幸せになれた気がする。
伝えてみないことには、変化は訪れないし、ものごとは動かない。
言葉にしてやっと、自分の内側が伝わる。
不器用な言葉であっても、そこに気持ちが乗っていれば、必ず伝わると思う。
背景を感じると、違う景色が見える。
「なんで、あんなに怒っているんだろう?」
「なんで、あんな言い方するんだろう?」
日々、生活していると、気分が下がる出来事に遭遇することはよくある。
知らない誰かの態度に、気分を乱されたり、傷つけられるのはもったいない。
「なにか辛いことがあったのかもしれない。」
「とても急いでいる用事があるのかもしれない。」
「恋人とケンカしたのかもしれない。」
こちらが勝手に想像するのは自由。
街中で、思いっきりぶつかったのに、謝りもせずに、去っていかれたら、怒りの感情が湧き出るけれど、子供の出産に立ち会うために全力疾走中のパパだったとしたら、「がんばれ!」って思う気持ちも出てくると思うのです。
そうやって、自分の気持ちが落ち着くように、書き換えてみると、相手の態度に支配されなくなってくる。自分がイライラしていると、その気持ちは、また違う誰かに伝染して、その人を不快にし、マイナスな循環しか生まれなくなっていきます。
自分で断ち切る。
それもまた、誰かのためになると思うのです。
言葉や行動の裏側を、想像したり、感じ取ることで、視野がグーンと広がります。
動いてから、考える。
あれこれ考え過ぎて、10日もブログを更新していなかった(T_T)
お引越しのために、いろいろ調整したり、勉強していたけれど、それは「やってる感」に浸っていただけ。10日間、自分に言い訳していましたね。
何を書こうと考え過ぎて、書けなくなるくらいなら、こうして書いてみる。
言葉の力を信じている。
これからも綴っていくし、自分の言葉が、誰かの心に留まって、何かのきっかけになったら、嬉しい。
”更新を楽しみに待ってくれている人がいる”
そう思うのは、私の想像の自由なのだ( ˘ω˘ )